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「はあ」
そこへは、案内も乞はずに、小谷吾郎が気がるに裏口から入つて来た。
「えゝ、さうですとも、あれは傑えら物ものですよ。あの師団長は第一答礼の仕方からしてちがひまさあ。かういふ風にね、ゆつくりかう腕を上げてね(と、彼は身振りをして見せる)。めつたに口を利きませんでしたよ。口を利かなくても答礼の仕方がものを云ふんですよ。やあ御苦労だつた、なんて中隊長みたいな軽いことは云ひませんよ。睨まれやうものなら恐いの何んのつて、いやほんとに身体がぶるつと顫ふるへましたよ」
「うむ、わしか」
「きさまか、鬼倉ちふのは」
「いゝえ、なんの。おれんとこへなんか。――あんたは忙しい身だもの」
盛子は妊娠していた。
相沢は満足さうに馬の首を叩きつゞけていた。房一は思はず微笑した。彼にはこの時の相沢がひどく愛嬌あるものとも見えたからである。けれども、房一自身の顔にさつきから現れているものも、ちやうど子供が好きな物を前にしたときに見せるあの熱心さと同じ表情だつた。
と、やがて相手は訊き返した。声音は落ちついて低かつたが、その裏には場合によつてはまるで反対の強さに瞬時に変りかねないことを感じさせる力がこもつていた。
「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和おとなしくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在ざいの者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄こづかみたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」
「さうです」
いつの世にも、温泉場に来るものは病人と限ったわけではない。健康の人間も遊山ゆさんがてらに来浴するのではあるが、原則としては温泉場は病を養うところと認められ、大体において病人の浴客が多かった。それであるから、入浴に来る以上、一泊や二泊で帰る客は先ず少い。短くても一週間、長ければ十五日、二十日、あるいは一月以上も滞在するのは珍しくない。私たちの若いときには、江戸以来の習慣で、一週間を一回まわりといい、二週間を二回りといい、既に温泉場へゆく以上は、少くも一回りは滞在して来なければ、何のために行ったのだか判らないということになる。二回りか三回り入浴して来なければ、温泉の効目はないものと決められていた。
房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。